201901-

哲学・宗教・文化論・芸術・武道…考察をまとめるための場として

「無常」と「無我」を実践するための考察

最近読んだ2冊についてまとめておく。

 

読んだ本

アルボムッレ・スマナサーラ『無常の見方』(サンガ,2009)

ワールポラ・ラーフラブッダが解いたこと』(岩波書店,2016)

 

内容について

どちらも原始仏教について書かれている本だ。『無常の見方』は「無常」にテーマを絞った内容で、『ブッダが解いたこと』は西洋思想を念頭におき網羅的に原始仏教の基礎を解説する内容になっている。自分は知人から勧められて読んでみた。どちら内容も複数のブログなどで取り上げられているので詳細はそれらにゆずることにする。

 

考察と問題点

そもそも原仏教は信仰ではない。では、何なのか?実践するため、つまりよりよく生きるための方法なのだと書かれている。この考え方には同意できる。禅についての知識が多少あるので全く抵抗はない。

では自分はどうするべきか。この2冊を読んで「この2冊の内容の中から自分の生活に取り入れるとすれば何か。それは、どうしたら実践できるのか」という問いが浮かんできた。分析哲学など思想的な観点から原始仏教を考えるのも興味があるが今は抑えておく。

ただ、実践するまでにはいくつか問題がある。これは原始仏教の考え方や本の内容というよりも自分に染み付いている悪習が原因となっている。

悪習を乗り越えて実践するために

まず問題になるのは、全てを実践したいと考えてしまうこと。この2冊はとてもわかりやすく、どの内容も深く理解したいと思ってしまう。ただ、いくら2冊が入門的な内容だとしても、網羅的に把握できるはずがない。そんなことができれば、同じような本が書けるだろう。これと付随して、どの内容も1から10まできっちりと守ってみたくなっている自分がいることも問題である。

これらの問題に共通するのは「どうせやるなら全てを満遍なくやりたい」「目指すのは完全コンプリート!」という収集癖にも似た欲深さである。これまでに幾度も失敗してきた悪循環に陥るパターンでもある。

そこで今回は2冊の内容から「無我」「無常」の2つのキーワードに絞ることにした。極端すぎる気もするが、最小限に絞ることで実践しやすくなると考えた。そのほかのトピックになりえる四聖諦や八正道などの戒め的な内容や苦については一旦保留することにした。

 

実践(実装)に至る背景

「無我」と「無常」を必要とする背景や理由をを書いておく。

そもそも「実践」とは実際に行動(思考も含め)することだと考えている。だから今の自分の生活スタイルや経験にあわせて「無我」と「無常」を咀嚼する必要があると思った。実践は実装と言い換えてもいいのかもしれない。

では、なぜ無常と無我を実践する必要があるのか。今の生活で過不足がないのなら「無常」も「無我」も必要ない。何が問題なのか?正直、「無常」については切迫した問題はない。今までも「無常」だと思って過ごしてきた。だが、よく考えると「無我」を前提にした場合、「無常」を受け入れられないことに気づいた。つまり自我を前提として、「無常」を分かったつもりになっていたのだ。自分は変わらない、けれど自分以外は変わっていると考えていた。ただ、それは勘違いだと分かった。だから、もう一度「無常」については実践する必要があると考えた。

「無我」については、その考え方自体に驚きがあった。最近、コミュニケーションにおいてはアサーションを拠り所にしていたので、もし「無我」を前提にすると自己主張できなくなるのではないかという不安がよぎった。ただ、「無我」の考え方は否定できない。むしろ2冊を読んで「無我」に強い憧れと希望を感じてしまった。また数年前まではよく「無我でいたい」と考えていることも思い出した。ただ、その時は自己犠牲的な考え方だったように思う。

アサーションや自己主張について息苦しさを感じていたのも事実だ。具体的には子育ての経験が大きい。子供は自己主張するが、自分は主張して押し通すことはできないし、力づくで抑えるわけにもいかない。なぜなら力的に自分の方が有利だからだ。でも自分も自己主張したい時もある。眠い時は寝たいし、子供と遊ばずに本を読みたい時もある。そうなるとアサーションだけでは解決できず、いらだたしさだけが残るようになった。

子供とどうコミュニケーションすればいいのか。この問題に対処するために「無我」がヒントになるのではないかと感じた。本を読み始めた時には、ここまでしっかりと問いを設定していたわけではない。むしろ子供とのコミュニケーションは常に課題で、何か糸口を探している状態だったと言った方がいいのかもしれない。

 これらの背景があって「無我」と「無常」を実践しようと考えた。どちらかというと「無常」よりも「無我」の方が課題として重要だと感じている。 

 

実践(実装)するために

「無我」と「無常」を実践する上で指針にするべきだと考えた部分と、実践できるそうだと思える状態になるまでに考えたことを残しておく。

 

まず「無常」について

我々は無常な現象に執着するから苦しいのです。無常が本当にわかれば、執着がなくなります。「どうせ変わるのだから、ぜんぶ無駄だ」と諦めるのです。(アルボムッレ・スマナサーラ『無常の見方』(サンガ,2009)p242)

「無常」については、この部分で十分だと感じた。特に「どうせ変わるのだから、ぜんぶ無駄だ」という一文を読んだ時に、そんなものなのかと思えた。感覚的に腑に落ちた感じもある。日々の心構えはこれでいい。これと併せてヴィパッサナー瞑想を実践すれば、また気づけることも多そうだ。「無常」については難なく実践できる気がした。

次に「無我」だが、こちらはちょっと悩むことがあった。大前提として「無我」の考え方自体は、自己がそもそも無いということで理解はできた。しかし実践するのは難しそうだと感じた。

自分が「無我」についてすぐに思い付いたのは「無我ならば、どう自己主張するのか?」という問いだ。子供とのコミュニケーションの問題にも直結する。そもそも自我がないのだから自己主張もないのだが、だとすると例えば子供がわがままを言っている時に要求の全てを叶えればいいのかとか、無茶振りをしてくるクライアントに対して「無我」の考え方だとどう対処すればいいのか分からなかった。もしかして相手の言いなりになるしかないのかとも考えた。

そこで昨日の夜に「無我」に対する考えと疑問を妻に話すと「受け入れればいいんじゃない?」という助言をもらった(サラッと)。その一言で「無我」がしっくりきた。つまり、「無我」→「受容」と置き換えると自分には実践できそうだと思った。

「受容」する方法は分かっている。昨年秋頃のテーマであった「傾聴」がそれだとすぐに閃いた。ここで「無我」-「受容」-「傾聴」が繋がった。これなら、わがままを言う子供や無茶な要求に対しても「傾聴」して「受容」すれば、「無我」を保てるのではないかと考えた。(そもそも自我がないのだから「無我を保つ」と言うのも妙な気もするが、西洋思想的な自己がある状態(自己主張や争い)に陥らないようにするという意味を想定している。)

具体的な実践方法としては「傾聴」→「受容」を繰り返していくと「無我」でいられるのではないかと考えている。それだけでなく、もし「傾聴」がうまくいけば相手が相手自身の問題と向き合って、自分で問題を解決できるはずだ。この方法は他者だけでなく、自分にも適応できる自己受容の方法だとも捉えられた。

実践(実装)と今後

今日から「無我」「無常」を実践(実装)してみる。もちろん「無我」「無常」自体の考え方や捉え方については理解が浅いことも自覚している。2冊しか読んでいないのだし、当たり前である。ただ、今回の試みは実践することに意義があると感じている。実践して、実感して、 関連書籍を読んで理解を深めて更新していく。つまり、これが「無常」「無我」に則したやり方なのではないかと。 

これから読みたい本としては、

ウィリアム・ハート 『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』(春秋社,1999)

マハーシ・サヤドー『ヴィパッサナー瞑想』(サンガ,2016)

アルボムッレ・スマナサーラ『自分を変える気づきの瞑想法』(サンガ,2015)

南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社 ,2018)

魚川 祐司 『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』(新潮社,2015)

ロバート ライト 『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(早川書房,2018)

 

さらに「無我」「無常」と併せて、別のテーマである「解釈」についても読み進めたい。スーザン・ソンタグ『反解釈』(筑摩書房,1996)など、ソンタグの本を「無我」「無常」の観点から読んだら面白そうな予感もする。「解釈」については、ある程度まとめられる状態になったところで書き残したいと思っている。